私は彼女の足下に身を投げ、跪いて云いました。
「よ、なぜ黙っている!
何とか云ってくれ! 否なら己を殺してくれ!」
「気違い!」
「気違いで悪いか」
「誰がそんな気違いを、相手になんかしてやるもんか」
「じゃあ己を馬にしてくれ、
いつかのように己の背中へ乗っかってくれ
どうしても否ならそれだけでもいい!」
私はそう云って、そこへ四つン這いになりました。
(中略)・・・どしんと(ナオミは)私の背中の上へ跨がりながら、
「さ、これでいいか」と、男のような口調で云いました。
「うん、それでいい」
「これから何でも云うことを聴くか」
「うん、聴く」
谷崎潤一郎「痴人の愛」より 今でも僕はこのシーンに頗る昂奮してしまいます。
時代の精神というのは不思議な形で共鳴を媒介する。
おそらく性的な意味において「お馬さんごっこ」が日本に登場したのは、この作品が初めてだったのではないでしょうか。
ここで抜粋したのはエンディングですが、物語の中盤では、二人のラブラブなお馬さんごっこが繰り広げられていました。

古くは紀元前のギリシア時代にアリストテレスも好んだと伝えられる
「愛の馬〜 Equus Eroticus」は、近代日本文学によってようやく紹介されたのでした。
日本人は古来から農耕民族として栄え、騎馬民族文化の歴史が長い西洋風のお馬さんごっこは、馴染みがなかった。
しかし江戸時代に「女房の尻に敷かれる」という表現があったように、Female Domination の萌芽は準備されていたように思います。
「痴人の愛」は大正13年の新聞小説で、官能的な二人の愛の遊戯として「お馬さんごっこ」が紹介され、一躍大ブームになりました。(作品が)
自由奔放なナオミの、ニュースタイルな女性の生き様が脚光を浴び「ナオミズム」という流行語も生まれました。
「S女」とか「女王様」という言葉や概念もなかった時代に、その先駆けだったと言えるかもしれません。
ちなみに春川ナミオさんのペンネームはこのナオミのアナグラムです。
(「春川」は女優の春川ますみからもってきている。ご本人の弁)
「痴人の愛」は一般的には純文学としての名声の誉れも高い名作です。この作品のインパクトのわりには、「お馬さんごっこ」がメジャーになりきれなかったのは、これがあまり「SM的ではない」からなのかもしれません。

もちろん作品全体につらなる精神的なマゾヒズムという点では、きわめてSM的と(僕は)感じるのですが、この場面で描かれていたお馬さんごっこには、それほどSM的なイメージは見えなかったのだと思います。
発表当時の人々のリアクションはわからないけれど、恋人同士のたわいもない戯れという理解が精一杯だったのではないでしょうか。
当時のM男予備軍に、お馬さんごっこのSM的刺激が伝わるには、10年早かった。
確実にある確固たる気持ちが霧の中に包まれているように「もやもやした」状態から
やがていろいろなことが明らかになっていく「晴れ上がり」の時代へ。

それでは、何をもって「SM的」というのか?
これも議論の多い話題になりますが、俗に「鞭・ローソク・浣腸」といわれるように、変態性・性的倒錯というカテゴリーに含まれるには「お馬さんごっこ」は、少しだけ「健全」な印象を(僕は)持っています。
「痛い」「苦しい」鬼畜の人馬調教もアリなのでしょうが、なんとなく微笑ましい、むしろ滑稽な感じが先に来ます。
元来、男のマゾヒズムには
愚かで、哀れで、もの悲しい面 がある。
だけど、その中でもお馬さんごっこにはちょっぴり明るさが見えます。
映画
「女性上位時代」に見られるようにさわやかなイメージさえ感じられるのです。
真性S女でなくても、健全でノーマルなお嬢さんが楽しめそうな魅力があります。
そして、無邪気に楽しみながら、彼女の秘めたるサディズムがゆっくりと芽生え、男を支配する喜びに、ごく自然と目覚める可能性に満ちているのです。
痴人の愛 (新潮文庫)
【管理人は以下の過去記事もお読み頂ければと願っています】■ 楽しいお馬さんごっこ
■ 背中に座られる時
■ NHKの変態講座
■ お馬さんごっこ
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137億年からしたら、瞬時でしょうけど。