
昨年、大阪の
米国総領事が男性と結婚している「同性婚」をカミングアウトして話題となりました。
今年の大統領選の争点にもあがっているこの問題、日本ではイマひとつピンとこないようです。
映画「Sex and the City」の弁護士ミランダ役で知られるシンシア・ニクソンが、最近のインタビューで
「gay by choice(同性愛者であることを自ら選んだ)」と発言し、物議を醸しています。
何が問題なのかが少しわかりにくいかと思いますが、要するに、彼女の発言は、同性愛権利擁護者が拠り所としてきた説、
性的指向は選択ではなく生まれながらのもの
(by birth/born/genetics) という主張への異論と解釈され、ゲイ(レズも含まれる)コミュニティーから非難されました。
もし選択可能であれば、それは「趣味」のようなもので、いつでもやめられるというわけです。
アメリカでは伝統的に同性愛を「不道徳」で「矯正可能」なものと主張する保守派がこの発言で勢いづき、特にゲイ差別反対運動に関わってきたシンシアの言葉だっただけに影響が大きかったみたいです。
その後、シンシアは「自分は両性愛者(bisexual by birth)であり、今は同性愛の関係を選んでいる」という苦しい釈明をしていますが、本当のところどうなのでしょう。
バイ(両性)であればネコにもタチにもなれるというのは、わかるような気がしますが、同性愛嗜好、あるいは性同一障害のようなものが生まれながらのものか、後天的なものかという議論は微妙であり、僕にはよくわかりません。
個人的には、男とも女とも性的関係が結べるというのは、ある種の「才能」という気はします。
話が違うのかもしれませんが、女王様に鞭で打たれるのはいいけど、男には打たれたくない。
全く文脈が別だけど ↑ あえてここで書いておきたかった(>_<) それはともかく、少し乱暴な言い方をするなら、ゲイもマゾも女装子も痴女も、全ての変態は才能であり、自分の意志や努力で選択したりなれるとかいうようなものではないと思うのです。
だからといって正当化する気もないのですが、もともといい悪いの問題ではありません。
表向きに「趣味ですよ~」とは言ってはいても、そういう変態行為を一度でもしてしまったら、もう変態。
しかし、それは病気でも異常でもなく、個性のバリエーションの一つと僕は考えたい。
そしてそれはむろん犯罪ではないにしても、その「罪」は一生背負っていかねばならない。
僕自身は自分がマゾヒストであることを「選んだ」とは言えません。
もしインタビューされることがあったとして(まず、ないとは思いますけど)
マゾヒズムが僕を選んだ!と、言いたいですね、カッコつけて(^^)
【このエントリーを読んだ人は以下の記事も読んでいます!】↑ どうしてわかるんだヨ (。。)☆\バキ ■ ホモとマゾはどちらがヘンタイか?■ レズとS女はどちらが変態か? ■ マゾは病気か? ■ 女装とマゾ■ 性倒錯■ ゲイ作家・田亀源五郎
■ 正しいマゾのなり方
- 関連記事
-
なにかのときに、このフレーズをパクってもいいですか?
「節操のない変態」を自認している私の意見だと、「同性愛」と「同性との性的行為」は別物です。
建物全体がプレイルームで、乱入、集団調教、が当たり前だった昔の夢楽園では、「強制ホモ調教」が名物でした。
もちろんほとんどのM男はノンケです。
それでも「強制ホモ調教」を受け入れるM男が多かったのは、「女王様に命令されて、女王様が見ている前で、ホモでもないのに男同士でハレンチなことをさせられる」状況に興奮するからです。
彼らは「ホモだから」男性のモノをくわえるのではなく、「マゾだから、女王様の命令だから」男性のモノをくわえるのです。
また最近では、女性の恋人がいる若い女装子も増えています。
もし「女装しているときだけは、男性との性的行為もOK」だったとしても、恋愛対象が女性だけなら、変態界では「ノンケ女装」になります。
変態の世界をモラル派の人達が頭の中だけで理解しようとするのが、そもそも無理なのです。