人類の歴史は支配と服従の繰り返しであった。古代文明はきわめて原始的なやり方で支配力を行使して人々を服従させてきた。支配したいという欲求があるなら、「支配されたい」という欲求もあるであろう。それも、自分の思うがままに...
マゾヒストは支配者の前で道化となる。その悲哀も偽善も、女王という美の前においては道徳的な狂人としての真実をうつしだす。その道化芝居の仮面の奥に、真実の素顔を透視することができる。
SMクラブは、資本主義社会が産み出したこの
道化芝居の舞台小屋のようなものかもしれない。

マゾヒスト達は自ら台本を書き、出演し、女優であるミストレスを演出する。その女王は奴隷の前に支配者として君臨しているかのように見えて、実はそのマゾヒストによってコントロールされているという偽善。これを滑稽と言わずして何と呼べばよいのか?
もしも奴隷が望まず、そして女王が自ら望んでマゾヒストである顧客を辱め、苦痛を与えているのならば、道化芝居とは言えまい。つまり、もし奴隷であるはずのマゾヒストが、望んではいない苦痛や辱めを受け入れることが可能なら、これは真実の姿として認められるのである。
しかし、ここに逆説的な矛盾がある。マゾヒストは、自分の思い通りに女王に「演技」してもらいたいので、台本通りに振る舞うことをその支配者に要求するのだ。エゴマゾであろうとなかろうと、マゾヒストは独自のイメージを持ち、それを実現するためにさらに滑稽な努力をせざるを得ない。
例えば、セッションがある段階まで打ち合わせ通りに進んでいたとする。
それまで
「お許し下さい女王様!」
「おだまりっ、この奴隷め」
とかいった会話がなされていたのだがある瞬間、マゾヒストが望まぬ展開になった時、「違う!そこはそうじゃない」と怒鳴り、女王様が「あら、ごめんなさい」とかなんとか言うの。
それでいいのか? なんとなく、みっともなくない?
僕としては、
それだけは絶対にやるまいと、思っている。
事前打ち合わせやカウンセリングで、NGプレイだけは伝えているはずなので、よっぽどアブナイことでもされない限り、素に戻ることは避けたい。セーフワードもなるべくなら使いたくない。何か不本意な方向にプレイが流れても、僕はあえてその流れに身を任せたいと思うのである。そこには「筋書きのないドラマ」が待ちかまえているかもしれない。
SMクラブで行われるプレイは、はじめから茶番劇のようなもの。所詮はエゴマゾの猿芝居だ。マゾとしての品格があれば、いったん舞台に上ったならば、幕が降りるまでその演技を全うするのが、せめてもの仁義だと思う。
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こちらが本館になっていたのですね。
停止しちゃったのかと残念に思ってました。
で、この仁義、すごく分かります。土方巽が舞台で逆立ちしたまま耐え続けて「台詞をくれ!」って叫んだというエピソードをちょっと思い出したりして(ズレてるかも)。