
変態行為を美化するわけではないが、SMには芸術的なセンスが必要だ。
やみくもな欲望むきだしのプレイは下品である。
セッションは、お互いの嗜好やイメージを尊重しながら行うコラボレーション。
だから相手のSM観や美意識を理解する能力に加え、それらを表現するテクニックが重要となる。
具体的には、言葉使いや仕草、間の取り方や小道具の扱いなど、セッション中のあらゆる動作、言動、雰囲気が含まれる。
二人の意気が投合し成功しているセッションは、他の誰かが見ても興味深く美しい、そしてエキサイティングなシーンとなっているはずだ。
これらはSMショーやセッションをナマ撮りしたビデオなどを見ていても明らかである。
絵画作品や映画に言えることがSMにもそのままあてはまる。
作られた虚構ではあっても、見る者を感動させる真理が含まれている。それらは芸術といってよい。
芸術は嘘である。だがその嘘は、私たちに真理を悟らせてくれる。
ーパブロ・ピカソー ある目的のネタとなり得るビデオ作品には、その人にとっての「真理」が潜んでいる。
それを見て自慰を行い、射精に至ることを可能ならしめる必要な要素が、「真理」とも言えなくはないであろうか。

そういう意味において、SMも性的なものではあるが、セックス以上に精神的なものである。
挿入することが最終目的ではない。
そういう人がいてもいいし、それも一つの手段ではあるが、SMにはもっと深いところで、人間の本能を越えた何かがある。
セックスは生殖に結びつく人類存続への本能的な行為で、SM的な行為は必ずしもそうではない。
極論すれば、生存にどうしても必要なものではない。
生きていくのに精一杯な人間には、セックスは出来ても、芸術活動を行うゆとりはないであろう。
芸術を理解するには、生活と心にゆとりが求められる。
近代までは貴族的な特権階級に独占されていた芸術的活動を、現代社会では一般大衆が享受している。
美術展に行ったり、文化センターで陶芸を習ったりする普通の人たちが、もし興味本位でSMをやろうとしても上手くいかないのであれば、経済的に満たされていても、心にゆとりが足りないからではないだろうか。

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